野球ファンの素朴な疑問
- プロ野球選手の野球留学ってあるの?
- 野球留学した有名選手はいるの?
- 中南米
- 台湾
平成後半、ウインターリーグで試合経験を積むことが多かったですよね。
実戦機会を増やすのが目的です。
環境を変えることで、成長を促す狙いもあるでしょう。
「宮崎フェニックスリーグ」の再開で、シーズンオフの野球留学はやや減少していますが。
昭和時代、シーズン中に若手選手を「アメリカのマイナーリーグ」へ野球留学へ行かせていました。
帰国後に活躍した「有名選手」も多数いるんですよ
- アメリカ野球留学の歴史
- 帰国後に活躍した有名選手
- マイナーリーグでの成績

マイナーリーグ野球留学 / 日本人メジャー第1号誕生
昭和から平成前期まで、多くのプロ野球選手が「アメリカのマイナーリーグ」に派遣されました。
現地のレギュラーシーズンで、試合経験を積んだんです。
日本人メジャーリーガー第1号は、村上雅則氏(マッシー村上)
マイナーリーグへの「野球留学」がきっかけでした。
アメリカ野球留学の歴史
1960年代 / マイナーリーグ野球留学開始
アメリカへの野球留学が盛んになったのは、1960年代頃からです。
- 川上監督時代の読売ジャイアンツ
- 鶴岡監督時代の南海ホークス
プロ野球チームが、海外キャンプを始めた頃になります。
1960~90年代の海外野球留学は、シーズン中に選手を派遣。
当時は、マイナーリーグの公式戦に出場していたんです。
今は海外へ選手を派遣するのは、日本のシーズンオフばかりです。
日本人メジャー選手誕生 / 村上雅則

「海外野球留学」で頭角を現した代表例は、村上雅則氏が挙げられます。
村上雅則投手は1964年、南海ホークスからマイナー球団「Fresno」に派遣
メジャーリーグに昇格しました
「日本人初の大リーガー」の称号を手にしています。
野球留学制度がなければ、1995年の野茂英雄氏が「日本人初の大リーガー」になったでしょう。
その後、海外野球留学は一時途絶えました。
マッシー村上投手のマイナーリーグ成績
(Fresno, 1A)1964年
11勝7敗、防御率 1.78、49登板、1先発、投球回数 106回、64安打、28失点、21自責点、6本塁打、34四球、11死球、159三振、1暴投
(アリゾナ冬季リーグ)1964年
5勝3敗、防御率 1.61、11登板、8先発、投球回数 56回、45安打、14失点、10自責点、1本塁打、5四球、3死球、141三振、0暴投
マッシー村上投手のメジャーリーグ成績
(Giants, MLB)1964年
1勝0敗、防御率 1.80、9登板、0先発、投球回数 15回、8安打、3失点、3自責点、1本塁打、1四球、0死球、15三振、0暴投
(Giants, MLB)1965年
4勝1敗、防御率 3.75、45登板、1先発、投球回数 74.1回、57安打、31失点、31自責点、9本塁打、22四球、3死球、85三振、3暴投
1970~80年代 / マイナーリーグ野球留学が盛んになる

1970年代中期、「太平洋クラブ・ライオンズ」がアメリカ野球留学を再開。
1990年代前半まで、日本の各球団がマイナーリーグや独立リーグに選手派遣を続けました。
1980年代後半、巨人・阪神・ヤクルト・ダイエー・西武・近鉄が若手選手を派遣。
ヤクルト・ダイエー両球団は、同一チームに選手を送り込みました
1990年代 / ハワイ・ウインターリーグへの移行時期
1993年「ハワイ・ウインターリーグ」が発足。
日本・韓国の若手選手を受け入れて、1997年まで運営されていた冬季リーグです。(2006年に一時的に復活)
「ハワイ・ウインターリーグ」では、鈴木一朗(イチロー)選手が「Hiro Stars」でプレーしています。
シーズンオフの海外派遣にシフトチェンジしたのは、ハワイウインターリーグ開催がキッカケです。
2000年代以降 / 他国への海外派遣に移行
- シーズン中は日本国内
- シーズンオフは海外
2000年代に入ってからは、シーズンオフの野球留学へと期間が完全移行しました。
- 台湾
- 中南米(ドミニカ・プエルトリコなど)
- オーストラリア
アメリカ以外の他国へと、派遣する地域も移っています。
日本人選手がマイナーリーグでプレイするのは、「メジャーリーグ25人登録枠」に入れない場合ばかりです
シーズン中の「マイナーリーグへの派遣」は途絶えました
▼マイナーリーグでプレイした日本人選手(40人枠外)

日本帰国後に活躍した野球留学選手
1970-80年代の成功例
- 真弓明信(クラウン・阪神)
- 秋山幸二(西武・ダイエー)
- 工藤公康(西武・ダイエー・巨人・横浜)
- 山本昌広(中日)
- 村松有人(ダイエー・オリックス)
- 山崎武司(中日・オリックス・楽天)
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全てタイトルホルダーです
実は有名タレント「長嶋一茂」さんも、野球留学経験者です!
真弓明信(Lodi, 1A)1973年
マイナーリーグの成績
25試合、79打席、71打数、13安打、1二塁打、0三塁打、0本塁打、4打点、0盗塁、8四死球、16三振、打率、183、出塁率.266、OPS.463
秋山幸二(San Jose, 1A)1983年
マイナーリーグの成績
88試合、342打席、308打数、78安打、9二塁打、5三塁打、7本塁打、43打点、7盗塁、27四死球、55三振、打率、253、出塁率.323、OPS.706
工藤公康(San Jose, 1A)1984年
マイナーリーグの成績
3勝4敗、防御率 1.91、20登板、0先発、投球回数 37.2回、42安打、13失点、8自責点、0本塁打、14四球、1死球、41三振、3暴投
山本昌広(Vero Beach, 1A)1988年
マイナーリーグの成績
13勝7敗、防御率 2.00、25登板、17先発、投球回数 148.2回、125安打、42失点、33自責点、9本塁打、29四球、0死球、105三振、0暴投
村松有人(Salinas, Adv.A)1991年
マイナーリーグの成績
121試合、348打席、318打数、66安打、7二塁打、3三塁打、0本塁打、17打点、10盗塁、17四死球、72三振、打率、208、出塁率.251、OPS.499
山崎武司(Dodgers, Rookie)1987年
マイナーリーグの成績
10試合、0安打、3四球、4三振、打率、000


長嶋一茂(Vero Beach, Adv.A)1992年


マイナーリーグの成績
79試合、256打席、226打数、53安打、10二塁打、2三塁打、7本塁打、26打点、1盗塁、26四死球、60三振、打率、235、出塁率.311、OPS.700
アメリカでの登録名
アメリカへ野球留学すると、「ニックネーム登録」する選手が数名存在しました。
当時の野球カードで確認できます。
大久保博元(デーブ大久保)


大久保博元氏(元・西武・巨人)の登録名「Dave Okubo」。
日本帰国後も「デーブ」の愛称で、野球ファンによく知られていますよね。
マイナー時代の成績
(San Jose, 1A)1986年
127試合、430打席、387打数、101安打、17二塁打、1三塁打、6本塁打、54打点、1盗塁、34四死球、52三振、打率、261、出塁率.321、OPS.677
八木裕(リチャード八木)


阪神タイガースの「代打の神様」八木裕氏。
登録名は「リチャード八木」
球場や街中で
「リチャードさん!」
と呼びかけても、振り返ることはないでしょう。
「デーブ大久保」氏は広く認知されていますが、「リチャード八木」は誰にも知られていませんよね。
マイナー時代の成績
(Fresno, 1A)1988年
122試合、423打席、355打数、91安打、16二塁打、4三塁打、7本塁打、31打点、8盗塁、62四死球、92三振、打率、256、出塁率.366、OPS.749
もう日本プロ野球選手を、アメリカのマイナーリーグで見かけることはありません。
でもアメリカ旅行のついでに、一度はマイナーリーグに足を運んでみてください
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