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【第5回新人選手選択会議】ドラフト会議(1969年)/ 新人選手のドレード移籍(荒川事件)

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目次

第5回ドラフト会議(昭和44年)

1969年のプロ野球事情

第5回ドラフト会議が開催された1969年。

セリーグでは、巨人が阪神に6.5ゲーム差をつけて5連覇を達成

パリーグでは、悲願の初優勝を目指す近鉄が、阪急と10月まで優勝争いをしました
最後の直接対決で、3連敗を喫し涙を飲みました。

「ロッテオリオンズ」の球団元年であり、「アトムズ」はサンケイグループとヤクルトの共同経営とし、企業名なしで1年間活動しています。

11月20日に開催された

第5回ドラフト会議は、昭和44年11月20日に開催されました

第5回ドラフト会議の指名順位

指名順位を決める抽選では、残り2枚(3番目と11番目)で迎えた巨人が、虚しく11番目を引いてしまいました。

残りくじの3番目は大洋に決定です。

指名順位:①中日 ②阪神 ③大洋 ④南海 ⑤西鉄 ⑥近鉄 ⑦東映 ⑧広島 ⑨アトムズ ⑩ロッテ ⑪巨人 ⑫阪急

ドラフト会議の変更点

この年から、日本の小・中・高校を卒業した韓国籍選手がドラフト対象となり、外国人枠から外れています。

前年の新浦選手入団に伴う措置で、近鉄は石山選手を指名しました。

・ 第1回ドラフト会議を振り返る

第5回ドラフト会議の傾向

東京六大学のスター・荒川堯選手、「甲子園のアイドル」太田幸司投手の行方が注目されたドラフトでした。

大洋の指名を拒否した荒川堯選手が、暴漢に襲われ負傷した「荒川事件」は、ドラフト史に残る大事件となっています。

ドラフトの目玉・荒川堯選手は、「巨人とアトムズ」の2球団を逆指名していますが、前年の田淵選手の阪神入団が後押しとなり、他球団が強行指名を伺わせていました。

同一球団が同じ選手を、2年連続で指名する珍事もありました。

(西鉄ライオンズが片岡捕手を2年連続指名)

前年の「黄金ドラフト」ほどではありませんでしたが、名球会メンバーを2名輩出したドラフトでした。それでは1969年のドラフトを振り返ってみましょう。

セリーグ各球団の指名状況

読売ジャイアンツ

1981年7月1日甲子園球場(筆者撮影)

河埜和正・読売ジャイアンツ

王貞治氏の師匠・荒川博氏の養子である、ドラフトの超目玉「荒川堯選手」の逆指名を得ていました。

しかし指名順位が11番であったため、指名できませんでした。

大洋とトレード交渉しましたが、大洋側の見返り要求が高く不成立に終わっています。

遊撃手として活躍した、河埜和正選手が入団。他にも控え選手を指名できており、成果としては可もなく不可もなくでしょうか。

阪神タイガース

1980年4月26日西宮球場(筆者撮影)

上田次郎・南海ホークス

大学の目玉投手・上田二朗投手が入団しています。

2桁勝利は2度のみでしたが、昭和48年には22勝しており、実りあるドラフトと評価できるのでは。

大洋ホエールズ

1988年3月9日撮影(筆者撮影)

間柴茂有・日本ハムファイターズ

ドラフトの目玉・荒川堯選手を強行指名して、大騒動になりました。

早稲田大学では、怪我での欠場がありながらも、通算19本塁打した強打の内野手です。

世間のパッシングや脅迫状などを受けながらも、入団拒否と初志貫徹を貫きましたが、散歩中に2人の暴漢に襲われ負傷しました。

入団交渉は不調に終わり、巨人・アトムズにトレードを持ち掛け、最終的にはシーズン途中に三角トレードで希望球団・アトムズに移籍となっています。入団後は暴漢に襲われた後遺症で視力障害に苦しみ、通算225試合しか出場していません。

2位で間柴富裕投手を指名していますが、移籍先の日本ハムでの活躍が大きく、実り少ないドラフトではなかったでしょうか。

中日ドラゴンズ

1983年3月25日西宮球場(筆者撮影)

谷沢健一・中日ドラゴンズ

荒川堯選手と早稲田大学で共に活躍した、谷沢健一選手を入団させています。

谷沢選手だけでも大成功だと言えますね。

他にも松本幸行投手が、4位で入団しています。

アトムズ

1981年8月26日甲子園球場(筆者撮影)

大矢明彦・ヤクルトスワローズ

八重樫幸雄(1位)、西井哲夫(2位)、井原慎一郎(5位)、外山義明(6位)、大矢明彦(7位)、内田順三(8位)と戦力供給率の高いドラフトでした。

編成担当者からすると自慢になりそうですね。

指名した捕手2名が、チームの主力となる珍しいパターンです。

広島東洋カープ

上垣内誠・西沢正次両選手が控えとして出場しましたが、実りあるドラフトとは言えませんね。

あまり語るところなしです。

阪急ブレーブス

前年の「プロ野球史上最高のドラフト」から一転。

ほとんど戦力とならなかった大外れドラフトでした。

1位指名で入団した三輪田勝利投手は、引退後にスカウトになり、イチロー選手を入団させる快挙を果たしました。よって、成功だったと言うと評価甘すぎですか?

近鉄バファローズ

1982年4月4日甲子園球場(筆者撮影)

太田幸司・近鉄バファローズ

高校生の目玉・太田幸司投手を指名しています。

通算58勝以上に、世間の注目や観客動員の貢献が大きかった事でしょう。

他にも神部年男投手も指名しており、全体としても実りあるドラフトと言えますね。

因みに、球団職員であった石山一秀捕手を5位指名しています。

ロッテオリオンズ

ほぼ戦力とならなかった外れドラフトでした。
藤沢公也投手を3位指名しましたが、入団に至っていません。

東映フライヤーズ

岡持和彦選手が、長らく控え選手として活躍した以外は戦力となっていません。

5位指名の猿渡寛茂氏は、引退後に指導者として活躍されています。

西鉄ライオンズ

1984年8月26日西宮球場(筆者撮影)

柳田豊・近鉄バファローズ

8位指名で柳田豊投手を入団させています。

西鉄では大きな活躍はしていませんが、近鉄とのトレードで主砲・土井正博選手を獲得できました。

前年に15位で入団拒否された片岡旭(新之介)選手を、翌年も社会人野球でプレイできる事を条件に、5位で2年連続指名してしています。2年連続同一選手の指名なんて珍事ですねえ。

南海ホークス

1982年4月8日西宮球場(筆者撮影)

門田博光・南海ホークス

1位・佐藤道郎投手、2位・門田博光選手(本塁打歴代3位・567本)と、投打の主力選手をW獲得しています。大当たりドラフトでした。

野村南海を語るに於いて、欠かせない2選手ですよね。

3位指名を拒否した山本功児選手が入団していたら、1996年ホークス(井口・松中・柴原)と肩を並べる評価を得たことでしょう。

鈴木治彦(葉留彦)選手を指名しましたが、入団拒否しています。

大当たり選手 / 谷沢健一・門田博光

  • 谷沢健一(中日)
  • 門田博光(南海)

総括 / 第5回ドラフト会議(1969年)

中日・南海が大当たりドラフト。

地味ながらもアトムズも当たりドラフトと言えるでしょう。


戦力供給の観点からすると、実りない球団が多かったドラフトでした。

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この記事を書いた人

日本野球・アメリカ野球の旅行情報を中心に発信しています。

野球観戦歴は50年、日本野球1000試合以上、アメリカ野球600試合を生観戦してきました。

・日本プロ野球全本拠地
・メジャーリーグ全本拠地
・マイナーリーグ100球場

野球場巡りをした実体験を元に、旅行情報をまとめています

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