野茂英雄・古田敦也と多くのスターを生み出した、1989年ドラフト。平成ナンバー1の大豊作ドラフトであった。
山田・福本・山本浩二・東尾・有藤など、数々の名球会選手を送りだした、昭和ナンバー1の1968年ドラフト。その1968年に劣らぬ結果となった、黄金ドラフトであった。
第25回ドラフト会議(1989年・平成元年)
1989年のプロ野球
1989年のプロ野球は、セ・リーグで読売ジャイアンツ、パ・リーグで近鉄バファローズがリーグ優勝を果たした。
パ・リーグでは、近鉄がシーズン終盤に西武ライオンズとの激しい優勝争いを展開。10月12日の最終戦では、ラルフ・ブライアントが西武のエース・郭泰源&渡辺久信から3打席連続本塁打を放つなど、驚異的な勝負強さを発揮した。さらに第4打席でも本塁打を記録し、4打数連続本塁打という圧巻の活躍で西武を破り、リーグ優勝を決定づけた。
この劇的なシーズンを象徴するように、セ・リーグのMVPには巨人のウォーレン・クロマティ、パ・リーグのMVPには近鉄のラルフ・ブライアントが選出された。
日本シリーズでは3連勝で先に王手をかけた近鉄を、巨人が4連勝で巻き返し、日本シリーズを制覇した。結果的に巨人の3連敗4連勝と、劇的な優勝となった。
ドラフト会議の日程と開催会場
第25回ドラフト会議は、1989年11月26日、東京都港区の赤坂プリンスホテルで開催された。
前年まで使用されていたホテルグランドパレスから会場が変更され、赤坂プリンスホテルで初めて開催。1989年はドラフト会議の運営面でも、新たな変化が見られた年となった。
ドラフト会議の変更点
1989年のドラフト会議では、指名選手の発表方法に大きな変化があった。
それまでのドラフト会議では、指名選手の名前を司会者が読み上げ、1位指名選手などを手書きで掲示する方式が採用されていた。しかし、この年から会場にモニターが設置され、指名選手の名前を画面上に表示する方式へと変更された。
これにより、重複指名や2位以下の選手についても、名前を視覚的に確認しやすくなった。ドラフト会議の情報伝達という点で、大きな進歩といえる変更だった。
一方、新しい表示システムの導入に伴い、パソコンの操作や表示作業に時間を要し、ドラフト会議の終了時刻は当初の予定を大幅に超えることになった。
また、テレビ中継もテレビ朝日系列へと変更され、従来より広い地域でドラフト会議を視聴できるようになった。
1989年のドラフト会議は、野茂英雄をめぐる史上最多8球団の競合が注目を集めただけでなく、会場設備や情報発信の面でも、新たな時代への転換点となった。
1989年ドラフト会議の動向
最大の注目を集めたのは、社会人野球の新日鐵堺に所属していた野茂英雄投手である。
常時150キロ前後の剛速球と、打者の手元で鋭く落ちるフォークボールを武器に、1988年のソウル五輪では日本代表のエースとして活躍。社会人No.1右腕として、即戦力の評価を確立していた。
その圧倒的な実力から、複数球団による競合は必至と見られた。野茂の交渉権をどの球団が獲得するのかが、ドラフト最大の焦点となった。
「12球団OK」の姿勢をみせていた野茂に、目玉選手から敬遠されがちな不人気のパリーグが、指名を避けるはずがなかった。
結局パリーグ6球団中、5球団が指名した。
もう一つの注目が、高校球界屈指の遊撃手・元木大介と、東京六大学の三冠王・大森剛をめぐる巨人の選択だった。
元木は巨人入りを強く希望し、他球団から指名された場合には入団しない意向を示していた。一方の大森も、巨人からの1位指名を希望。巨人がどちらを選択するのか、ファンの関心を集めた。
野茂の抽選結果に加え、巨人の1位指名をめぐる駆け引き。1989年のドラフト会議は、選手の実力と入団交渉の両面で大きな注目を集めたドラフトとなった。
1989年ドラフト会議|12球団の評価と総括
1989年のドラフト会議は、後年の選手たちの活躍を振り返れば、平成時代を代表する「大豊作ドラフト」と評価できる。
最大の目玉だった野茂英雄をはじめ、佐々岡真司、古田敦也、佐々木主浩、潮崎哲也、小宮山悟といった球界を代表する選手が次々と誕生。さらに、前田智徳、石井浩郎、新庄剛志、岩本勉ら、各球団の主力として長く活躍した選手も輩出した。
特筆すべきは、1位指名選手だけでなく、2位以下からも数多くのスター選手やタイトルホルダーが生まれたことだ。指名順位にかかわらず、各球団のスカウト力と編成方針が問われるドラフトでもあった。
それでは1989年ドラフト会議を振り返ってみる。
読売ジャイアンツ|大森剛の誤算と吉岡雄二の流出
▼ 1990年3月16日、西宮球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
巨人は、東京六大学野球の三冠王・大森剛内野手を1位指名。元木大介ではなく、大森を選択する方針を貫いた。
大森は大学時代の実績から即戦力の長距離砲として大きな期待を集めたが、ポジションの兼ね合いから出場試合が限定され、一軍で定位置を確保することはできなかった。7年間で一軍出場は132試合にとどまり、期待されたスラッガーとしての才能を十分に発揮できなかった。ファームで高い実績をあげたが、一軍出場に結びつかなかった。ファーム通算120本塁打は、歴代3位の記録である。
当時の巨人には駒田徳広ら一塁を守る強打者が在籍し、さらに他球団から実績のあるFA選手が加わるなど、出場機会を確保するうえでも厳しい環境だった。
一方、3位で指名した吉岡雄二は、巨人在籍中こそ大きな飛躍を遂げられなかったものの、近鉄への移籍後に打者の才能が開花。長距離砲として活躍し、通算131本塁打を記録した。
指名選手が全員入団したものの、期待された大森が伸び悩み、吉岡の才能も他球団で開花した。豊作となった1989年ドラフトの中では、物足りない結果に終わった。
総評: 大森剛の獲得は期待外れ。吉岡雄二という将来の主力候補も自軍で育てきれず、ドラフト全体としては低評価となる。
広島東洋カープ|佐々岡と前田智徳を獲得した大成功ドラフト
▼ 1989年10月24日、大阪球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
広島は野茂英雄の競合を避け、地元・NTT中国のエース佐々岡真司投手を単独1位指名。確実に即戦力投手を獲得する戦略が、見事に成功した。
佐々岡は入団1年目から、先発ローテーションの柱として活躍、シーズン終盤はリリーフでも奮闘した。2年目の1991年には17勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率、沢村賞、MVPなどを獲得する圧巻のシーズンを送った。その後も先発と抑えの両方で実績を残し、長年にわたって広島投手陣を支え続けた。
さらに、このドラフトの価値を一段と高めたのが、4位で指名した前田智徳外野手の存在である。
高卒入団ながら早くから非凡な打撃センスを発揮し、やがて広島を代表する強打者へと成長。通算2119安打を記録し、球界屈指の打撃技術を持つ選手として高い評価を受けた。
加えて、6位の浅井樹も代打や控え外野手として、長く一軍で活躍。チームの選手層を支える存在となった。
即戦力エースの佐々岡に加え、球団を代表する打者となった前田、さらに浅井まで獲得。上位から下位まで質の高い選手をそろえた。
総評: 佐々岡真司と前田智徳という、投打の中心選手を獲得。浅井樹も含め、スカウト陣の眼力が際立った文句なしの大成功ドラフト。
▼ 1990年6月10日、甲子園球場(筆者撮影)

中日ドラゴンズ|与田剛の即戦力獲得に成功
▼ 1990年5月27日、甲子園球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
中日は野茂英雄の競合を避け、社会人屈指の剛球右腕・与田剛投手を単独1位指名した。
与田は期待に違わぬ活躍を見せ、入団1年目の1990年には31セーブを挙げて最優秀救援投手と新人王を獲得。剛速球を武器に、セ・リーグを代表するリリーフ投手として鮮烈なデビューを飾った。
その後は故障などもあり、全盛期の活躍を長く維持することはできなかったが、1年目のインパクトとタイトル獲得を考えれば、単独指名で獲得した価値は十分に高かった。
2位の井上一樹は投手として入団した後、野手に転向。長年にわたって、チームを支える外野手へと成長した。
また、6位の種田仁も内野手として一軍で活躍。独特の打撃フォームで知られ、移籍後も含めて長くプロ野球でプレーした。
総評: 与田剛の新人王獲得に加え、野手転向で開花した井上一樹、種田仁も戦力となった。野茂指名を回避した結果としては、十分に成功と評価できるドラフトである。
ヤクルトスワローズ|古田敦也の獲得で球団史に残る大成功
▼ 1993年10月6日、甲子園球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:5名
ヤクルトは1位指名で野茂英雄に入札したものの、抽選に敗れた。その後、外れ1位で西村龍次投手を指名した。
西村は入団後、先発ローテーションの一角として活躍。4年連続で2桁勝利を記録するなど、野茂を逃した後の1位指名として十分な働きを見せた。
しかし、このドラフト最大の成果は、何といっても2位で獲得した古田敦也捕手である。
社会人野球のトヨタ自動車から入団した古田は、捕手としての卓越した守備力、強肩、投手を生かすリードに加え、打撃でも圧倒的な能力を発揮。入団2年目の1991年には首位打者を獲得し、攻守両面で球界を代表する捕手へと成長した。
その後もヤクルトの黄金時代を支え続け、通算2000安打を達成。捕手としての総合力では、歴代屈指の存在となった。
なお、3位の黒須陽一郎は入団を拒否し、指名選手全員の獲得には至らなかった。
それでも、西村の安定した投球と古田の歴史的な活躍を考えれば、上位2人の獲得だけで十分に大成功と評価できる。
総評: 古田敦也という、球界を代表する捕手を2位で獲得。野茂の抽選に敗れながらも、結果的には球団史に残る大成功ドラフトとなった。
阪神タイガース|新庄剛志を発掘した価値ある指名

指名人数:6名/入団人数:6名
阪神は野茂英雄の抽選に敗れ、外れ1位で法政大学の葛西稔投手を指名した。
葛西は即戦力として期待され、先発とリリーフの両方で起用された。特に中継ぎ投手として長年にわたり貢献し、1996年には63試合に登板。安定した投球でブルペンを支えた。
そして、このドラフトで見逃せないのが、5位で指名した新庄剛志外野手の存在である。
高校時代から身体能力の高さを評価されていた新庄は、プロ入り後に守備力と長打力を兼ね備えた外野手へと成長。阪神の中心選手として活躍し、広い甲子園球場を本拠地としながら年間20本塁打以上を3度記録した。
当時の阪神は長く低迷期にあり、打線の迫力不足が課題となっていた。その中で、新庄の華やかなプレーと長打力は、チームにとって大きな魅力だった。
後年にはメジャーリーグにも挑戦し、日米で強い存在感を示すスター選手となった。
総評: 葛西稔が投手陣を支え、5位の新庄剛志が球団を代表するスターへ成長。下位指名から大きな成果を得た、阪神にとって価値の高いドラフトである。
横浜大洋ホエールズ|佐々木主浩の獲得で大成功
▼ 1989年6月8日、グリーンスタジアム神戸(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
大洋は野茂英雄を1位指名したものの、抽選に敗れた。
そこで外れ1位として指名したのが、東北福祉大学の佐々木主浩投手だった。
佐々木はプロ入り拒否の姿勢(社会人ヤマハ入り)を示しており、入団交渉には時間を要したが、最終的には入団を決断。結果的に、この選択が球団の歴史を変えることになった。
佐々木はプロ入り後、圧倒的な速球とフォークボールを武器に救援投手として頭角を現す。やがて「大魔神」の愛称で親しまれる、球界屈指のクローザーへと成長し、日米通算381セーブを記録。横浜の1998年日本一にも、大きく貢献した。
一方、3位の平塚克洋も注目したい選手だ。大洋在籍時には十分な出場機会を得られなかったが、移籍先の阪神では打撃力を発揮し、レギュラーとして活躍した。
2位以下の指名選手から大きな戦力的成果を得たとは言い難いものの、佐々木一人の獲得がドラフト全体の評価を大きく押し上げている。
総評: 野茂を逃した後に、佐々木主浩を獲得できたことが最大の勝因。球界を代表するクローザーを手に入れた、文句なしの当たりドラフトである。
近鉄バファローズ|野茂と石井浩郎を獲得した歴史的な大成功
▼ 1990年9月20日、日生球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
近鉄は史上最多となる8球団が競合した、野茂英雄投手の交渉権を見事に獲得した。
当時の野茂は社会人No.1右腕として、圧倒的な評価を受けており、即戦力エースとして大きな期待を背負っていた。
その期待に応え、入団1年目から18勝を挙げて最多勝と新人王を獲得。さらに、その後も4年連続で最多勝に輝くなど、パ・リーグを代表するエースとして君臨した。
しかし、このドラフトの価値は野茂の獲得だけではない。
3位で指名した石井浩郎内野手も、近鉄の主軸打者として大活躍。勝負強い打撃と長打力を武器に4番を任され、パ・リーグを代表する強打者へと成長した。
さらに、4位の藤立次郎は外野の控えとして一軍で出場機会を得て、6位の入来智も先発・中継ぎの両方で貴重な戦力となった。
球界を代表するエースと、チームの主砲を同時に獲得した圧巻のドラフトだった。
総評: 野茂英雄と石井浩郎という、投打の中心選手を同時に獲得。下位指名からも戦力を確保しており、1989年ドラフトの最高評価にふさわしい「神ドラフト」である。
▼ 1990年8月26日、西宮球場(筆者撮影)

オリックス・ブレーブス|豊作ドラフトの中では苦戦した指名
▼ 1989年10月24日、大阪球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
オリックスは野茂英雄を1位指名したものの、8球団による抽選に敗れた。
外れ1位で指名したのは、社会人野球の熊谷組に所属していた佐藤和弘外野手。後に「パンチ佐藤」の愛称で親しまれた選手である。
話題性の高い選手ではあったが、プロではレギュラーを獲得するまでには至らず、一軍通算149試合の出場にとどまった。
3位の高橋功一投手は通算24勝を記録したものの、先発投手として長くチームを支える存在にはなれなかった。また、5位の松山秀明内野手も一軍で126試合に出場したが、主力選手として定着することはできなかった。
全員を入団させることには成功したものの、他球団が野茂や佐々木、古田といった球界を代表する選手を獲得したことを考えると、戦力面でかなり見劣りする結果となった。
総評: 1位の佐藤和弘をはじめ、指名選手の多くが期待された水準には届かなかった。歴史的な大豊作ドラフトにおいて、やや取り残された印象の強い指名である。
西武ライオンズ|潮崎哲也の一本釣りに成功
▼ 1990年3月13日、日生球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
西武は野茂英雄の競合には参加せず、社会人野球の松下電器に所属していた潮崎哲也投手を単独1位指名した。
潮崎は独特の高速シンカーを武器に、プロ入り後すぐに頭角を現した。先発とリリーフの両方で起用され、西武の黄金時代を支える投手へと成長。15年間で通算523試合に登板し、長期にわたってチームに貢献した。
野茂の獲得競争に参加しなかった西武だが、結果的には球団を代表する投手を確実に獲得したことになる。
一方、2位の鈴木哲投手は通算7勝にとどまり、期待された働きはできなかった。3位の大塚孝二外野手も一軍で466試合に出場したものの、レギュラー定着には至らなかった。
下位指名から大きな成果を得たとは言い難いが、潮崎の長期にわたる活躍は十分に評価できる。
総評: 野茂の競合を避け、潮崎哲也を単独指名した判断が成功。2位以下に課題は残ったものの、1位の成果だけでも当たりドラフトと評価できる。
福岡ダイエーホークス|元木大介の入団拒否が響いた痛恨のドラフト
▼ 1989年4月1日、甲子園球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:5名
ダイエーは、野茂英雄の抽選に敗れた後、外れ1位で高校球界屈指の遊撃手・元木大介を強行指名した。
元木は以前から巨人入りを強く希望しており、ダイエーへの入団を拒否。結果的に1年間の浪人生活を選択し、翌1990年のドラフトで巨人から1位指名を受けて入団した。
球団としては、野茂に続いて元木の獲得にも失敗。貴重な1位指名権を戦力補強につなげられなかったことは、大きな誤算だった。
2位以下では、3位の橋本武広投手と5位の馬場敏史内野手に注目したい。
橋本は後に西武などで中継ぎ投手として活躍。馬場もオリックスやヤクルトなどで内野手として実績を残した。ただし、いずれもダイエー在籍時の貢献は限定的で、他球団への移籍後に評価を高めた選手である。
結果的に、指名した元木を獲得できず、2位以下からも球団の中心選手を育てることはできなかった。
もっとも、翌1990年のドラフトでは浜名千広を獲得しており、元木の入団拒否による影響を一定程度補うことができた。
総評: 野茂と元木というドラフトの目玉を、相次いで逃したことが最大の痛手。橋本武広や馬場敏史も他球団で実績を残したが、自軍の戦力補強という観点では厳しい評価となる。
日本ハムファイターズ|岩本勉を獲得し投手陣を強化
▼ 1994年3月9日、日生球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
日本ハムは野茂英雄を1位指名したものの、8球団による抽選に敗れた。
外れ1位で指名したのは、近畿大学の酒井光次郎投手。さらに2位では、阪南大高校の岩本勉投手を獲得した。
結果的に、上位指名で左右の投手を確保できたことは大きな成果だった。
酒井は入団1年目から先発ローテーションに入り、10勝をマーク。即戦力投手として期待に応えたものの、その後は故障などもあり、長期にわたって活躍することはできなかった。
▼ 1989年6月8日、グリーンスタジアム神戸(筆者撮影)

一方の岩本は、プロ入り後に着実に力をつけ、先発投手として成長。1990年代後半には日本ハムのローテーションを支え、2年連続でリーグ最多完投を記録するなど、通算63勝を挙げた。
野茂の獲得には失敗したものの、酒井の即戦力としての働きと、岩本の長期の活躍によって、投手陣の強化につなげることができた。
総評: 酒井光次郎と岩本勉という、左右の先発候補を上位で獲得。野茂を逃した後の指名としては、十分な成果を残した堅実なドラフトである。
・ 岩本勉投手のインタビュー動画(高校時代)
ロッテオリオンズ|小宮山悟の獲得で野茂の穴を埋める
▼ 1990年5月22日、西宮球場(筆者撮影)

指名人数:6名/入団人数:6名
ロッテは野茂英雄を1位指名したものの、8球団による抽選に敗れた。
外れ1位で指名したのは、早稲田大学の小宮山悟投手だった。
小宮山は卓越した野球理論と多彩な変化球を武器に、プロ入り後に先発投手として頭角を現した。長年にわたってロッテ投手陣の中心を担い、通算117勝を記録。さらにメジャーリーグにも挑戦するなど、幅広い経験を持つ投手となった。
野茂を獲得できなかったロッテにとって、小宮山の指名は結果的に大きな成功だった。
また、4位の南渕時高も内野手として長く一軍でプレーし、チームの戦力として貢献した。
野茂の抽選に敗れた球団の中には、その後の指名で苦戦した球団も少なくない。その中でロッテは、小宮山という長期にわたって活躍する先発投手を確保できたことが大きかった。
総評: 小宮山悟という、長期にわたって投手陣を支えるエースを獲得。南渕時高も戦力となり、野茂の抽選に敗れた後の指名としては成功と評価できる。
総括|第25回ドラフト会議(1989年)
1989年のドラフト会議は、野茂英雄に史上最多となる8球団が競合したことで知られるが、その真価は野茂一人の存在にとどまらない。
最大の特徴は、野茂の抽選に敗れた球団も、その後の指名で球界を代表する選手を獲得していることだ。
広島は佐々岡真司と前田智徳、ヤクルトは西村龍次と古田敦也、大洋は佐々木主浩、西武は潮崎哲也、ロッテは小宮山悟を獲得。いずれも球団の歴史を語るうえで欠かせない選手となった。
また、2位以下で注目すべき選手は他にもが多い。
近鉄は3位で石井浩郎を獲得し、阪神は5位で新庄剛志を指名。広島も4位の前田智徳に加え、6位の浅井樹を獲得するなど、下位指名からも大きな成果を挙げている。
これほど多くのタイトルホルダーや、球団の主力選手を輩出したドラフトは極めて珍しい。
一方、すべての球団が成功したわけではない。巨人は大森剛が期待に応えられず、ダイエーは元木大介の入団拒否によって1位指名を生かせなかった。オリックスも他球団と比較すると、戦力面で見劣りする結果となった。
つまり、1989年ドラフト各球団の指名戦略や選手獲得の成否によって、その後の戦力形成に大きな差が生まれたドラフトでもあった。
総評: 野茂英雄を筆頭に、佐々岡真司、古田敦也、佐々木主浩、潮崎哲也、小宮山悟など、球界を代表する選手を数多く輩出。さらに、2位以下からも新庄剛志、前田智徳、石井浩郎らが誕生した。まさに平成No.1の黄金ドラフトであった。
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