テレビ番組の影響で、注目が高まった「戦力外通告」。
年末の定番番組となりました。
家族に焦点を当て、不安と戦う「家族愛」を扱っています。
「プロ野球の経歴が、途切れてしまうのか?」
誰もが気になるところです。
クビ宣告からのリベンジ / 成功した名選手
戦力外通告を受けた選手のアピールの場、「トライアウト」。
多くの集客があり、今やプロ野球界の「人気イベント」となりました。
・復帰を目指す全力プレー
・引退式の趣き
・決別・決断のきっかけ
人気の要因は、数々あります。
現在ではプロ野球界を去っても、「独立リーグ」「社会人野球」と、受け皿が広い。
アマ球界を迂回して、プロ野球復帰を果たす選手もいます。
昭和時代には
・トライアウトはなし
・独立リーグはない
・アマ復帰は不可
一度プロ野球界から離れると、引退したも同然だった。
戦力外通告から復活した「強打者」を、振り返ってみます。
・V字回復
・W字回復
・下剋上
以上の3タイプに分けています。
V字回復型 / 山崎武司選手(楽天イーグルス)
地元・愛工大名電高校から、ドラフト2位で中日ドラゴンズに入団した、山崎武司選手(晩年の登録名:山﨑)
強打の捕手で、当初は捕手として育成されていましたが、同世代の中村武志選手が君臨していたため、外野手に転向しました。
1987年、アメリカへ野球留学の経験もあります。
・Gulf Coast Dodgers(Rookie級)
10試合、0安打、3四球、4三振
1996年は、本塁打王を獲得しており、順調にキャリアを積み上げました。
1998年には、大豊選手の阪神移籍に伴い、一塁手に転向。
2001年オフには、横浜ベイスターズへのFA移籍が注目されましたが、中日に残留しています。
2003年、山田監督との確執で、オリックスへトレード移籍。
2004年オフ、伊原監督との確執で、オリックスを戦力外通告
監督との相性で、チームを去っています。
2005年、新球団・楽天の田尾監督の誘いで、イーグルスに入団。
2006年、野村克也監督就任をきっかけに、V字回復しました。
楽天での7年間で、中日時代の通算成績に近い数字を残す、高いパフォーマンスを発揮
しています。
V字回復型の成功例です。
・1989-2002(中日・オリックス)
1200試合、961安打、211本塁打、617打点
・2005-2011(楽天)
908試合、820安打、191本塁打、568打点
・2012-2013(中日)
141試合、53安打、1本塁打、20打点
1989年4月27日に、西宮球場で撮影
W字回復型 / 中村紀洋選手(中日ドラゴンズ)
ドラフト4位指名から、5億円プレーヤーまで昇りつめた、中村紀洋選手。
激戦の大阪予選を、一人の力で勝ち抜いて、夏の甲子園大会に出場。
近鉄バファローズの中心選手として、長らく活躍しています。
FA権行使で、メジャーリーグ挑戦。
メジャーリーグでは、17試合の出場に留まりました。
・メジャー(Dodgers)
17試合、5安打、0本塁打、3打点、打率.128
・マイナー(3A , Las Vegas)
101試合、89安打、22本塁打、67打点、打率.249
帰国後はオリックス・バファローズに入団するも、大幅減俸を拒否して、1年で退団しています。
その後、他球団から入団要請がなく、中日ドラゴンズにテスト入団。
育成枠選手として、背番号「205」を背負いました。
支配下選手契約をしてからは、高いパフォーマンスを発揮し、1億円プレーヤーに返り咲いています。
FA移籍した楽天でも、2年在籍で戦力外通告。
移籍した横浜DeNAで復活して、オールスターゲームに出場しました。
・2006年オフ(オリックス)
・2010年オフ(楽天)
2度も戦力外通告を受けながら、レギュラー獲得しています。
W字回復型の成功例です。
・1992-2006(近鉄、オリックス)
1468試合、1370安打、319本塁打、961打点
・2007-2010(中日・楽天)
476試合、453安打、59本塁打、241打点
・2011-2014(横浜DeNA)
323試合、278安打、26本塁打、146打点
1992年5月19日に、神戸第2球場で撮影
下剋上型 / カズ山本選手(南海ホークス)
長い歴史を誇るプロ野球界でも、これほど劇的に野球人生が変化した選手はいません。
実績の乏しい戦力外通告選手が、プロ野球界復帰後に、億万長者まで昇り詰めました。
この「下剋上型」は、他には記憶ありません。
1982年オフ、近鉄バファローズを解雇された、山本和範選手(晩年の登録名:カズ山本)。
近鉄時代の1軍経験は、僅か2シーズンしかありません。
通算47試合・6安打
近鉄バファローズ退団後、チームメイトの久保康生投手の紹介で、大阪府池田市のバッティングセンターで、アルバイト生活をしていました。
その後、南海ホークスへプロ野球復帰。
南海2軍監督・穴吹義雄氏が、1軍監督に就任した幸運です。
2軍監督時代に目を付けていた山本選手に、救いの手を差し伸べたのが始まりでした。
南海ホークス入団後は、チャンスを掴んで、一気に才能開花。
2億円プレーヤーまで、昇りつめました。
「戦力外通告選手の出世頭」と言っても、過言ではないでしょう。
・1980-81(近鉄)
47試合、6安打、1本塁打、5打点、1盗塁
・1983-1995(南海・ダイエー)
1334試合、1223安打、145本塁打、564打点、99盗塁
・1996-1999(近鉄)
237試合、171安打、29本塁打、100打点、2盗塁
「カズ」と聞いて「三浦?or山本?」と頭に浮かぶのは、我々昭和世代の性。
これって、「昭和あるある」ですよね?
1986年9月23日に、西宮球場で撮影
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